昭和50年07月25日 朝の御理解



 御神訓 一、「縁談に相性を改め見合すより、信の心を見合せよ。」

 真の心を見合はせよと。まことというのはここでは、信心の信という字を書いて、まことと読ませてあります。信心の信の字を書いてある。だから信心の信の字に通ずると同時に、天地の誠にもつながるでしょう。それから真心の真にも繋がるでしょう。そういう様なものが繋がっておれば、夫婦の上にも幸せになれるという訳です。どんなに相性が良いからと言うて、普通一般で言う相性が良いからと言うても、大変不幸せな人もあります。主人が早く亡くなったり、家内が早く亡くなったり。
 それこそ思う様にならんのが浮世ではあるけれども。そういう不幸せあれほど相性を見合せたのだけれどもと言うのですから、それでは本当に繋がらない。信の心を見合せなければならない。だから問題はここには信心の信の字がありますから、夫婦が信心をすりゃだから全然問題じゃないです。夫婦がお道の信心をさせて頂いておるなら、これは絶対間違いないです。幸せになる事は間違いないです。
 只おがみよりますと言うそれじゃいかんですよ。今合楽で言われる真の信心です。金光様の真の信心を、夫婦の者が願い求めて行く信心ならこれならぜったいです。けれどもそうばっかり行かんとこがありますから、どちらか片一方が信心しよりゃ問題はないです。一切を信心で受けて行くなら、もう間違いはありません。どの様な場合であってもこれはおかげになります。真と言う事はこれは縁談だけの事ではありません。真一つで助かると仰る。それはね天地そのものが真だからなのです。
 大天地が真なんです。天地のはたらきが真なんです。天地はいっさいのものを包含しています。言うならば幸せの元と言うか、人間が幸せになる元のすべてを持っております。ですから天地が真であると言う事ですから、小天地である私共が真になる時にです、人間の幸せの総てがここに足ろうて来るという道理が成り立ちます。真でおかげが頂けるというのはそれだからです。
 先日から見えた沖先生の話でも、これは沖先生のギリギリの信心だろうと思うんですけれども、本来人間という者は、幸せにならなければならない様に出来ているんだと言うのです。けれども真を欠くから不幸になるのだと言うのです。ですからその真一つを願い求めて行くならばです、人間はもう絶対幸せにならんなんごと出来とるとです。それを合楽では具体的に色々教えております。
 第一天地の働き言うなら自然の働き、言うならば神様の御働きそのものを、御働きとして、御の字をつけて頂いて行けとこう言うのです。それが真ですあれは要るけど、これは要らんと言った様なものではなくて、天地の働きそのものをです、神様の御働きとして、然も、自分の前に起きてくるそれが問題であるならば、天地が自分に求め給う仕事であり、修行として受けて行くという行き方です。ですからこれは矢張り、そこに一つの手本と言うものがなからなければ、ほんなこっじゃろうかと思いますから。
 その一寸した手本が私なんです。言うなら成り行きをギリギリ大切にさせて頂いて、成程人間、私が例えば、本当に幸せだと致しますかね。だから皆さんがご覧下さってです、あゝ親先生は本当に助かってござる。親先生は本当に幸せであろう。本当に親先生が求められて得られぬ物はあんなさらん。あの様子を見ただけでも人間の幸せとは、あゝいうものだろうと言う一つの見極めと言うものを、私か、また私の信心から、皆さんが受けて下さらなきゃいけんです。
 そしてそういう幸せはどこから生れて来たか。そりゃ先生は特別じゃろうではなくてです、不幸せにならなければならない元を沢山持って行ったから、私自身は不幸せだったんです。どれだけ働いても働いても、儲かりもしなければ残りもしない。私の心の中に不幸せになる、人間は本来幸せの筈なんだけれどもです、不幸せになる元を自分で作っておるもんですから、幸せになる筈がないです。
 そこでそう言う所を、本気で見極めさして貰うて、改まらせて頂くと言う事と同時に、神様の御働きである、成り行きそのものをです。もう本当に同じ食物でももうこれは食べられん。返って毒になるという様なものでも、それが目の前に私の方に表れたら、言うならば死を覚悟で食べるわけです。これは例えば毒という様な場合であっても、目の前に食べろと言わんばかりに出て来たんですから。
 それでそれを合掌して頂くと言う頂き方をしたんです。だから大袈裟に言うとです、生も死も神様に委ねてあると言うわけです。これは私が五年間これだけはもう、見事に受けて行った訳です。又私はその事が、そんなに大変な素晴らしい事とは分らなかった。只苦しまぎれに改まりに改まろうと思う、研こうと思うどんなよい話を聞かせて頂いて、人間、本当の幸せになりたいと思う。この両親に親孝行したいばっかりに、言うなら一生懸命働きもしたのだけれども。
 終戦そして裸で一家中の者が引き揚げて帰ってこねばならんという、その時点でです。もう目も当てられないと思うた。この両親に安心して貰いたい、喜んで貰いたいばっかりであった。そこで神様にお願いをした。どうぞ両親が元気な内に本当に安心し、喜んで呉れるおかげを頂かして下さい。その為にはどんな修行でも致しますと、神様に私はお願いをした。だからその当時は様々な表行もした。私共の先達である先生方がです、されたと言う修行なら、それこそ火の行水の行あらゆる修行もさせて頂いた。
 只親に孝行したいばっかりに。それだけでもおかげが頂けないから、愈々私の上に起きて来る一切の事柄を、それを黙って合掌して受けると言う。それが意味はわからんなりにです。起きて来る問題を合掌して受けると言う生き方を五年間続けた訳です。考えて見るとようあんな大胆な事を神様にお誓い申したもんだと思うた。所が人間は腹です。腹を決めたら、それこそ、目の前に、これが毒な物であると言うても、目の前にそれが起きて来たならば、その問題を合掌して受けるという生き方をした。
 そして丁度五年祭を仕えるまる五年の時に、ホーレン草の畑から抜いて来たばっかり、まだ土もついとる砂利もついとる土もついとる。下の葉は赤い葉がついとる。こう髭もついとる。もう頂くと言うたらその全部を頂いた訳です。そこで神様がねもうこの男ばっかりは、どげな事でも頂くちいうたら、どげなもんでも頂くからこれからは赤い根の滋養になる所だけは頂かにゃならんけれども、髭はむしって頂け赤い葉はち切って頂け、そしてきれいに水で清めて頂けと言う事になって。
 愈々栄養になる所ばっかりを頂く事になった。それまでは金をくれと言うて来る者には、お賽銭箱をひっくり返して金を上げた。貸してくれと言うのには証文一つ取らずに、勿論その当時は余裕ちゃありませんからあるだけを上げた。それこそ棒にも箸にもかからん病人を預かってくれと言や預かった。そして預けた親は寄り付きもせんと言った様な場合もあった。けれどもほんな盲人の婆さんば連れて来てから、もう本当に私の方の家内は、その婆さんの為に掛っとらんならんごたる人を連れて来た事もあった。
 けれどもこちらが受けるという腹でおりますからね、そりゃ困るばのこげな婆さんば連れて来てからとも言わなかったし、こげなあなた息の絶えるごたる、しかも子供の病人ば十二にもなっとりましたけども、両手でこげんして抱える位こもうなっとったです。赤ちゃんのごとしとった。それを連れて来たっですからね。けれどもそれを黙って受けたと言う様な生き方です。けども本当に受けると言うたら、神様が本当に受けきるかどうかを、五年間は、お試しの時代だったと、今から思うと思います。
 その証拠には五年経ちましたら、金貸してくれと言う者もおらなければ、病人を頂かって呉れと言うのなんかは皆無でした。全然なかったです。昔から信心なさってる方達が、御承知の通りでしたよ。それまでは十人位それこそ青瓢箪のごたる病人が、お広前いっぱいにおりました。小さい狭いお広前でしたからね。だから皆さんにはです。そげんとまで受けろとは言わん。
 けれどもこれは頂きゃ滋養になると言うものなら、苦かろうが臭かろうがです、一遍本気で合掌して受けるという気になる。それが真なんです。大天地が真そこで小天地も真になる時に、その真と真が一つに交流する時にです。そこから生れて来るものは人間本来の、いわば大天地が幸せの全てを持ってござる。全ての中にこちらが突入するのですから、それを受けきって行く者が幸せにならない筈がないです。
 真の心を見合せよと言う事は、真とはそう言う事だと思うです。信心の信の字を書いて信と書いてある。そこで誠または真心の真という字の真、その真に全部通ずると思う。だから真一つで助からん筈はない。もしおかげが頂けん時には、自分の真の方が可笑しいんだ、間違っておるんだと言う事になるのです。その一番間違いのないこれなら絶対、大地を叩く程し間違いないという真はです、今私が申します本気で改まるとか、清まるという事と同時にです。起きて来るすべての問題を一応合掌して受けると言う事。
 先達ってから夜中に丁度あれは、お月次祭の夜だつたでしょぅか。私の所へ文男さん高橋さん、それから信徒会長の秋永先生、皆集まって信心話しに耽けっておる時でした。もうやんがて一時もその上もありましたでしょう。そんなに遅うお参りがあった。実はいつもの事ながら、又夫婦喧嘩を致しました。今まではそれこそ踏んだり蹴ったりした上に、出て行けと言うのが言いごつでしたけれども、こんどははっきり別れるとこう言うのです。そんならば私が信心させて頂いておる、合楽の親先生に話を聞いて貰うて、お広前でお神様の前で、別れる事にしようと言うて、夜中に二人でやって来た。
 主人になる方は勿論ここにも上がっては来ませんでしたけれども、然し本当に踏んだり蹴ったりせんならんという時には、踏んだり蹴ったりせんならん者も、本当に術なかっですよ。もう嬉しうて堪えんで叩きよったり、踏んだりしよる者は居らんですよ。もう自分の方が死のうごたるとですよやっぱ。だからどっちがどうち言われんです。はぁちょいとそんな事するなら、早う別れんのと言うごたる普通で聞くなら。
 そう言う事がです私は今日の御理解で言うなら、もう愈々相性が悪かっじゃろうと思いますね。それが年中じゃけんあぁた。然もそれが残酷な位です話しを聞くなら。踏んだり蹴ったり。所が今日私が申します様に、真の心と言う事が相手も真、こっちもちも真、両方とも信心するち言うなら、絶対問題はないと言う事。それはどんな時でも夫婦でも、諍いある時もありましょうけれども。そんなら親先生はどげん言いなさるじゃろうかと言うて、二人が信心するならそげんなって来るもん結果は。
 そこに信心によって纏まるもん。けれども、そういう訳には行かん片一方だけしか信心しよらんとこう言うならです。片一方だけでも良いと言うのです、真の信心をしよりゃ。神様にお縋がりし抜いて行くと言う手がある。神様がまた幸せになる道を必ず差し示して下さる。だからどちらか一人信心があればよいと言う事になる訳です。只拝みよりますと言うだけの信心じゃいかん。本な信心じゃなからにゃいつもの事ですから事情は聞かんでも分っとる。そこで私はその方に申しました。
 丁度応接台を囲んで話しよりましたから、私の目の前にマッチが一つあった。お茶屋さんの宣伝マッチなんです。天地は言うなら神様は絶えず、いつも物言いかけて下さってあると言う事を皆さん、何時の場合でも体験なさる事だろうと思うですけれども。その私がお届けをさして貰いよったら、目の前にあるマッチを頂いた。それまでは何処のマッチやら、何ち書いてあるとも知らなかったけれども、そのマッチをちょっとこう取上げて見たところが、何とこう言う事が書いてあったんです。
 『何と言うても飲むなら八女茶』と書いてあった。いわゆるお茶屋さんのキャッチフレーズです。何と言うても八女茶が一番良かという風に書いてある。何と言うても飲むなら八女茶と言う訳です。だから私はその方に申しました。主人が何と言うても飲んで行けち。大きな腹になれち踏まれようが、蹴られ様が、どういうひどい事を言おうが飲んで行けと。そして主人にもこのマッチを見せろと言うて帰しました。そりゃそれでも大変な事でしたその後でも。そう言う事を聞く人じゃなかった、相手が。
 所がです。数日後主人になる人が、奥さんの前に手をついてお詫びをした。今朝からね夢を見たと。その夢の中にそのご主人の亡くなられたお父さんが出て来られた。お前の今の家内は好きで貰うたっじゃろうがと。あゝいう残酷ないじめ方はするなと。仲良うやって行け。夢の中でイタチと言うのがおりますね、小動物鼠みたいなイタチです。イタチをね、こうやって切ったり裂いたりしよる所を頂いた。とにかく聞いただけでも残酷ですよね。こうやって潰したり引き裂いとる。
 こう言う事なんです。お前がしとる事はこう言う残酷な事だ。それこそ好きで貰うた嫁じゃないか、仲良うやって行ってくれと言うて、お父さんが頼む様にして言われた時にです。その方が翻然として心が開いた訳です。そしてそれこそ奥さんに手どんついた事のない人でしょうけれども私が悪かった。これから仲ようやって行くけん、今迄の事は水に流してくれと言うて詫びられたというのです。私はその電話を聞かせて頂いて本当に神様の働きちゃ素晴らしいなぁと思うたです。
 いわゆる片一方が一人信心があればですね、そういう働きになって来る訳です。それこそどんなに言われても飲むなら八女茶。八女茶という事は広がりに広がって行く女という意味でしょう。愈々心が豊かになりゃおかげも大きゅうなって来るという意味でしょう。何と言うても飲んで行けて。今日私が言う成り行きそのものを頂いて行けという意味なんです。それこそ表からほうり出されたら裏から入れ。
 裏からほうり出されたら、表から入って来る様な生き方をです。信心に依ってなして行けと言う事でございましたが、その後、おかげで仲良う商売なさってられます。これなんかは普通で言うなら、愈々ギリギリ相性が悪いと言われますね。けれどもね、両方が信心すりゃどんなに相性が悪かっても、私の父と母じゃないけれども、女の十九に男の二十五という大厄同志の者がです。
 一緒になってもそれこそ九十までも、二人とも長生きのおかげを頂いて、しかもここの爺っちゃま婆しゃま位、極楽と言えば、こう言うものじゃろうかと皆から認められ。自分達もそれを感じておるだろうと思う様な、有難い勿体無い生活に入って行ったのですからね。だから実を言うたら信心をしておれば、相性なんか問題じゃないと言う事が分かります。例えどの様な相性が悪かっても。
 どちらか一人真の信心させて頂きゃ、おかげになるです。然もそういう相性が悪かっじゃろうと言う様な、難儀が続けば続く程、その人は徳を受けるです。いわゆる真で受けて行くと言う事です。言うなら大天地が真なら、小天地の私達も真になるから、その真と真とが合流するから、人間本来幸せの筈でなからなきゃならんのに、不幸せになっておるのだから、本来に自分と言うものが戻って。
 幸せの条件のすべてが足ろうてくるという様な、素晴らしいおかげにまでなって来るのです。問題は、真の心をと仰っておられます。それを真を信心の信の字を書いて、信(まこと)と読ませてあります。だからこれは誠も中に入って来るでしょうし、真心の真と言う字も入って来る。そのどれもがです私共信心には、欠く事の出来ない心の状態です。大天地が真なら小天地の私共も真。
 天地が水ならこっちも水の性にならせて頂いた時に、初めてそれとこれとが一緒になれる。そこに大天地の幸せのすべてを持ってござる。その大天地と一緒になるのですから、それがまた受けられる訳になるのです。ただお願いをして、おかげを頂いてからと言うおかげは、部分的なおかげです。もう絶対本当にこの世だけではない、あの世までも幸せになれると言うのは真の信心以外にありません。真の信心と言うのは様々な難儀を通してです。私共の真の限りをそこに尽さして頂く時にです。
 天地の真と人間の真が一緒になる。そこからおかげを頂いて行くというおかげなら、そういうおかげを神様が喜んで下さる。そういう信心を分かる時に金光大神が喜んで下さり、そういうおかげを受けた時に、又自分自身も有難いと言う事になるのです。縁談に相性を改め見合わすより、信の心を見合わせよと言う事をです。今日はこの信という事に焦点を聞いて頂きました。
   どうぞ。